『沖縄タイムス』は、沖縄戦で荒廃した郷土に立ち、米国の施政権下にあって、 住民の声を伝え、復興の歩みを記録してきた。沖縄はいまだ困難な歴史の過程にある。 私たちは先人たちが築いてきた信頼を基に、県民とともに歩む報道を続け、想像力のある事業でよりよい未来を開きたい。

沖縄の戦後 沖縄タイムスの歩み
1945(昭和20年)
3/6米軍が慶良間諸島に上陸。4月1日に沖縄島に上陸。地上戦で20万人以上が死亡
5/25首里城地下の壕で『沖縄新報』廃刊
1948(昭和23年)
6/28『沖縄タイムス』発行を米軍が認可
6/29
通貨切り換えのスクープを『沖縄タイムス』号外として発行
7/1
『沖縄タイムス』創刊
12/30
崇元寺向かいにコンセット造りの社屋完成
1949(昭和24年)
6/5 ガリ版刷りから活字印刷に移行
1950(昭和25年)
8/15
初の単行本『鉄の暴風』発行
1952(昭和27年)
4/28
サンフランシスコ講和条約発効、日米安保条約発効。
沖縄が公式に米統治下に置かれる
1953(昭和28年)
4/11「土地収用令」により、米軍による強制的な土地接収始まる
1954(昭和29年)
3/1朝夕刊セット制開始
6/11
第1回新人芸能祭開催
1955(昭和30年)
9/3米兵が6歳の幼女を暴行、殺害
1956(昭和31年)
6/20
プライス勧告反対・軍用地四原則貫徹住民大会開催
(島ぐるみ闘争)
1957(昭和31年)
7/2
第1回沖縄タイムス賞贈呈式
7/6
久茂地の社屋に移転完了
1958(昭和33年)
1/26県内の漫画家・渡嘉敷唯夫氏による「時事漫描」
(現在の「時事漫評」)始まる
1959(昭和34年)
6/30宮森小学校に米軍ジェット機が墜落し、17人が死亡
1963(昭和38年)
2/28上山中学生が横断歩道で米軍トラックにひかれ死亡。
運転手は1回の裁判で無罪判決
8/19
「みどり丸遭難事件」で取材しながら人命救助し、唯一の水中写真を撮影。翌年日本新聞協会から特別表彰
1965(昭和40年)
6/11読谷村で米軍機が投下した小型トレーラーにより小学生死亡
1966(昭和41年)
1/21沖縄タイムス芸術選賞を創設
4/29季刊『新沖縄文学』創刊(93年に休刊)
1967(昭和42年)
2/5『新沖縄文学』4号に大城立裕氏の「カクテル・パーティー」を掲載。7月に沖縄初の芥川賞受賞
1971(昭和46年)
8/14
住民の視点で取材した「毒ガス移送報道」が日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞
1972(昭和47年)
5/15
沖縄が日本復帰
1973(昭和48年)
7/1伊波普猷賞創設
1974(昭和49年)
9/8 TWA墜落事故発生。本社主催事業のヨーロッパ産業視察団が搭乗。上地一史社長ら13人死去
1975(昭和50年)
7/20 沖縄国際海洋博覧会開催
1976(昭和51年)
10/10 具志堅用高さんがWBAジュニアフライ級世界チャンピオンとなる
1977(昭和52年)
4/15紙齢1万号
1978(昭和53年)
7/30午前6時交通方法変更実施、「人は右、車は左」の制度発足
1980(昭和55年)
2/10 沖縄タイムス出版文化賞創設
9/1 鉛活版を廃止
1981(昭和56年)
11/13国頭村の与那覇岳で発見された新種の野鳥が「ヤンバルクイナ」と命名される
4/10コンピュータによる新聞組版システムに移行
1983(昭和58年)
5/30
『沖縄大百科事典』3万部を刊行
1984(昭和59年)
3/24
久茂地に印刷センターが完成し、超高速度多色刷り
メトロ・オフセット輪転機が始動
1985(昭和60年)
3/24壺屋焼の金城次郎さんが人間国宝に認定される(県内初)
4/1『日刊スポーツ』沖縄地域版を印刷、発行
12/8第1回NAHAマラソン開催
1987(昭和62年)
9月・10月第42回国民体育大会「海邦国体」夏季大会(9/20~23)秋季大会(10/25~30)開催
国の一県一紙の方針の下、沖縄朝日新聞、沖縄日報、琉球新報(現在の『琉球新報』とは別)の3紙を統合。1940年12月から45年5月25日の廃刊まで、唯一の地元紙として沖縄戦のさなかも発行した。政府や軍部の代弁機関となり、積極的に戦意高揚の役割を担った。
通貨切り換えを伝える『沖縄タイムス』号外=1948年6月29日
『沖縄タイムス』は、創刊号の前に号外を出すという日本の新聞史上でもまれなスタートを切った。6,000部の「号外」が那覇市内を始め中南部の各地で、付近の子どもたちを集めて無償で配られた。
沖縄タイムス創刊号=1948年7月1日
「創刊のことば」で、高嶺朝光社長は「吾々は今日からこのささやかなる新聞を同胞諸君に送る、誠にお粗末なものではあるが沖縄の復興に歩調をあわせて吾々の新聞もまた成長して行くであろう。新聞の使命は重大だ、これを十分はたして行くことを念願して努力を捧げよう」と述べた。
那覇市の崇元寺向かいに建てられたコンセット造りの社屋
創刊間もなく、新聞発行の拠点は那覇市牧志の具志堅政治理事宅から、与儀の民家に移ったが、すぐに手狭になり、社屋が必要になった。48年12月30日、トタンぶきコンセット造り、カマボコ型の本館約75坪、工場約25坪が完成、31日に与儀から引っ越した。
平版印刷機を導入し第56号からガリ版刷りを廃止、活字印刷となる。11字詰め10段制。
写真は第5回沖展。作品を説明する玉那覇正吉(左から2人目)と島田寛平(左)、大嶺政寛(左から3人目)、金城安太郎(同4人目)1953年3月、那覇高校
『鉄の暴風』
沖縄戦記録文学とは別に、住民の立場から見た沖縄戦を忠実に記録して残しておこうと企画された。49年11月に本社の牧志篤三、太田良博両記者が執筆、豊平良顕理事が監修した。本社初の単行本であり、戦後沖縄におけるノンフィクションの先駆けとなった。
講和条約の調印を受け、琉球の行方を予測する記事=1951年9月10日朝刊
51年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約は、沖縄を無期限の米軍統治下に置くものだった。本紙は9月10日付の1面で「新生日本の門出」と見出しを打って伝える一方、2面で「信託統治と琉球/講和調印後の観測と希望」とし、政治、貿易、金融、主席公選など、今後琉球がどう動いていくかを予測する特集を組んだ。
4月11日の午後7時にブルドーザーが安謝の畑地を削り取る様子を伝える記事=1953年4月11日夕刊
「11日朝7時ごろ安謝部落東側の畑地に集まっていた数台のブルトーザーが一斉に動き出し、午前中には一帯の畑地約4、5千坪がすっかり削り取られてしまった。驚いたのは部落民でせめて残っている藷だけでも収穫しようと右往左往するブルトーザーの間でとことんまで頑張るものやら部落はずれの小丘に集って茫然と刻々変貌する畑地を眺めているやら・・・」と、住民の困窮を伝えた。
朝・夕刊ワンセット制実施をお知らせする記事=1954年3月1日
読者へのサービスという観点から、従来の月額朝刊70円、夕刊40円、計110円を改め、朝・夕刊セットで85円で提供した。
写真は第4回新人芸能祭=1957年10月25日、タイムス・ホール
「新人芸能祭」の開催は、郷土の伝統文化の保護育成という統一運動であった。戦前戦後を通して初めてのコンクールであり、入賞、入選者は「琉球舞踊のホープ」として顔写真入りで社会面や連載企画で紹介した。
2会場で15万人が集まった「四原則貫徹住民大会(第2回)」=1956年6月26日朝刊
「プライス勧告」は56年6月9日に報道され、その内容は軍用地料の一括払いを勧告するものだった。住民は反発し「一括払い反対」「適正補償」「損害賠償」「新規接収反対」の「土地を守る四原則」を貫徹することを掲げた「島ぐるみ闘争」へと発展していった。
第1回沖縄タイムス賞受賞者の特集紙面=1957年7月2日朝刊
創刊9周年と新社屋の落成を記念して「沖縄タイムス賞」が創設された。この賞は沖縄の政治、経済、産業、文化、社会奉仕などの向上と発展に尽くした個人、団体を顕彰するもの。顕彰は、「産業賞」「自治(功労)賞」「社会奉仕賞」「文化賞」「体育賞」「自然保護賞」「国際賞」の7部門に分かれている。
上空から撮影した落成間もない久茂地の旧社屋
1号線(現国道58号線)沿いにそびえる3階建ての白亜のビルは、当時としては沖縄一の規模を誇るものであった。創刊9周年、新社屋落成祝賀行事として、花火大会を6月30日と7月1日に開催。タイムス・ホール開きとして総合芸能祭(7月3、4日)や招待美術展(9月1~5日)などを開催して祝った。
渡嘉敷唯夫作「時事漫描」
渡嘉敷氏は58年から2000年まで「時事漫評(スタート時は時事漫描)」を手掛けた。86年から87年にかけては、画家の真喜志勉氏が執筆に加わり、91年10月1日からは砂川友弘氏が加わった。2000年から砂川氏が担当している。
宮森小ジェット機墜落事故を伝える記事=1959年6月30日夕刊
「30日あさ10時半ごろ、火を吐いた米軍Z機が授業中の石川市宮森小学校に落ち、職員生徒約100人の死傷者を出した。付近の民家も30軒焼けて、石川市は突然降ってわいた災難に、右往左往街中が半狂乱の状態におちいった。」
海底に沈む「みどり丸」。白く見えるのは操舵室で、上方はマスト=1963年8月19日夕刊
泊港を出港し久米島に向かっていた定期船「みどり丸」が、那覇市沖で横波を受けて沈没。乗客合わせて112人が死亡または行方不明となった。本社は第1報を受けて取材船をチャーター、警察より早く現場に到着し、取材しながら14人を救助した。海底に沈むみどり丸を撮影できたのは本紙だけだった。ちょうど朝日新聞社から借用した発売前の水中カメラがあり、未経験のカメラマンが荒波にもまれながら水中撮影した。一連の取材、救助活動は日本新聞協会の「会長表彰」を受けた。
「沖縄タイムス芸術選賞」創設を伝える記事=1966年1月21日朝刊
戦後の復興期の使命を果たした「芸術祭」に代わり、沖縄の芸術文化運動の飛躍を目指すものとして創設された。①琉球古典舞踊②琉球古典音楽③組踊④美術工芸⑤演劇⑥音楽(洋楽、邦楽)など11部門。
新沖縄文学
「文学不毛の地」などと言われた沖縄の文学土壌の活動を振興するための総合文芸誌として創刊された。同時に、沖縄タイムス社主催「芸術選奨文学部門」の対象作品の発表の場となり、小説、詩、短歌、俳句等の各ジャンルの投稿作品を選考して掲載するかたわら、活躍中の作家たちの作品も発表された。
「カクテルパーティー」で芥川賞を受賞し、仲間たちと喜びを分かち合う大城立裕さん(中央)=1967年7月21日、那覇市
第57回芥川賞、直木賞の最終選考委員会は、21日午後6時から東京・築地の「新喜楽」で開かれ、芥川賞に沖縄の大城立裕氏「カクテル・パーティー」(新沖縄文学四号・沖縄タイムス刊)が決定した。郷土文学界から芥川賞を受賞するのは戦前戦後を通じてこれがはじめて。
在沖米軍基地から国外に移動される毒ガス兵器=1971年1月13日
70年12月11日、在沖米陸軍は総貯蔵量1万3000トンの毒ガス移送計画(レッド・ハット作戦)を発表。第一次移送(71年1月)ではマスタードガス150トンを知花弾薬庫から天願桟橋まで運んだ。残り1万2850トンの毒ガス兵器を運ぶ第2次移送(7月15日~9月9日)は、50日に及んだ。本社は取材班を編成して報道に当たり、住民の側に立つために米軍から配られたガスマスクの着用を拒否して取材にあたった。その姿勢が評価されて71年8月14日、日本ジャーナリスト会議(JCJ)から奨励賞が贈られた。
沖縄の日本復帰を伝える紙面=1972年5月15日夕刊
屋良朝苗県知事は復帰が実現したことに感謝を表明しながらも「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、これからもなお、きびしさは続き、新しい困難に直面するかも知れません。わたしども自体が、まず自主主体性を堅持して、これらの問題の解決に対処し、一方においては、沖縄が歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除して県民福祉の確立を至上の目的とし、平和で、いまより豊かで、より安定した希望のもてる新しい県づくりに全力をあげる決意であります」と述べた。
「伊波普猷賞」「沖縄タイムス学術賞」を新たに設置することをお知らせする記事=1973年7月1日朝刊
 「伊波普猷賞」は〝沖縄学の父〟として知られる伊波普猷の業績を顕彰しつつ、後に続く郷土の文化・学術に大きく寄与した研究に贈ることとした。
TWA機墜落事故を伝える紙面=1974年9月9日夕刊
74年9月8日、アテネからローマに向かっていた米トランスワールド航空(TWA)の旅客機がイオニア海上ケファロニア島(ギリシャ)沖に墜落。同機には本社主催のヨーロッパ産業視察団の一行が搭乗していた。本社の上地一史社長、金城久重常務、阿部昭英広告局次長を含む13人が死去。事故発生直後「パレスチナ解放アラブ民主主義青年組織」と名乗るグループが犯行声明を出した。
海洋博前日の社会面記事=1975年7月19日朝刊
土地の買い占めと乱開発に対して県民から反発が起こった。沖縄のマスコミで組織するマスコミ労働組合協議会は反海洋博の立場をとり、本紙もメリットよりもデメリットについて県民とともに考えるという姿勢をとった。
具志堅用高さんがWBAジュニアフライ級世界チャンピオンとなったことを伝える紙面=1976年10月11日
WBAジュニア・フライ級でドミニカのファン・グスマン氏に7回KOで勝利、デビューからわずか9戦目でチャンピオンの座についた。
紙齢10,000号記念広告=1977年4月15日
同日付の特集で創刊メンバーの豊平良顕相談役は「沖縄タイムス創刊の同人は、捕虜時代にひそかに語り合い、こもごも過去を反省し、新聞の創業を画策した。そして沖縄再生の根源は『新聞の自由』にあり、と決意し、あらゆる苦難を克服して、創刊の意欲を始動させ、ついにガリ版刷りの沖縄タイムス第一号を誕生させたのである(中略)終戦直後から、祖国日本と断絶され、厳しい軍政下に活きる不可欠なものとして『沖縄の主体性』が、『新聞の自由』につぐ沖縄タイムスの創業精神とされた。沖縄の特殊な歴史が、沖縄の主体をモットーとする沖縄独自のジャーナリズムの思想を形成したのである。戦前、本土から差別され、戦後、米軍政に支配される沖縄の政治、経済、文化の解放、すなわち沖縄及び沖縄人の主体性を求めて、沖縄の歴史認識を新たにし、固有の民俗、芸能、民芸の蘇生を自発させ、美術、文学の開花を誘い、政治、経済の著しい歪曲現象にも、沖縄の主体性を理念として報道、論評されたのである」と述べた。
交通方法変更実施の様子を伝える記事=1978年7月30日夕刊
「左右転換」に大きな不安を残しながら、交通方法の変更は30日午前6時、信号機や標識など交通安全施設の左への切り替えをすべて終え、本土同様の交通システムへとスタートした。
「沖縄タイムス出版文化賞」を創設したことを伝える社告=1980年2月10日朝刊
沖縄における出版文化の向上と出版活動の振興を図るため、沖縄関係の一般刊行物の中から毎年すぐれた図書を表彰。第1回の出版文化賞に木崎甲子郎編著の『琉球の自然史』、西平秀毅著『戦時下の沖縄教育』、新城兵一著『流亡と飢渇』、また団体などの著作を対象にした特別賞に『伊江村史』と『恩納村史』が選ばれ、12月17日に贈呈式が行われた。
かつて使われていた沖縄タイムスの鉛活版
鉛活版に代わって樹脂版を導入。鉛版は鋳造機に250~300度で溶かした鉛合金を流し込んで作っており、重さは約17キロもあった。樹脂版の登場で重さは50分の1になり、鉛を溶かすガスや冷却用の水も不要になった。
新種の野鳥が「ヤンバルクイナ」と命名されたことを伝える記事=1981年11月14日夕刊
水鳥のクイナに似た新種の鳥が、国頭村与那で発見され、東京の山階鳥類研究所により、学名を「ラルス・オキナワエ」、和名を「ヤンバルクイナ」とそれぞれ命名された。
『沖縄大百科事典』は琉球弧の全域にわたるあらゆる分野を総合的にとらえて解明記述した本格的な地域百科事典として1000余人の執筆者の協力を得て完成。全3巻、別巻1、収録項目1万7011、総索引項目3万6018、写真・図版4547点。3万セットを刊行した。
超高速度多色刷りメトロ・オフセット輪転機始動=1984年3月
印刷速度は時速14万5千部。24ページ建て、4カ面の単色スポットが印刷できるようになった。91年には第4次増設で朝刊の2セット印刷を開始した。
壺屋焼の金城次郎さんの人間国宝認定を伝える記事=1985年3月24日朝刊
琉球陶器(壺屋焼)の金城次郎氏が、県内で初めての重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。本社はタイムス・ホールで6月10~14日、金城氏の地元の読谷村総合福祉センターで17~20日に「人間国宝・琉球陶器の巨匠 金城次郎の世界」展を開催。未公開の作品含め約250点を一堂に展示した展覧会は好評を博した。
第1回NAHAマラソン=1985年12月8日、那覇市松山の大典寺前
県内初の本格的な市民マラソンである第1回NAHAマラソンが、那覇市松山の大典寺前をスタートした。当初見込んでいた2000人を大きく上回る4503人がエントリーし、4301人が完走した。
海邦国体開幕特集紙面=1987年9月21日朝刊
第42回国民体育大会(海邦国体)が、全国一巡を締めくくる国体として、また沖縄の復帰15周年記念事業として開催された。夏季大会は那覇市の県立奥武山水泳競技場を主会場に、全国から約5,000人が参加して開かれた。秋季大会は10月25日から30日まで沖縄市の県立総合運動公園を主会場に、34市町村の74会場で32競技が行われ、全国から2万人と県が招待した海外移住者約500人が参加した。
写真は多くの参加者でにぎわった第20回沖縄県トータルリビングショウ=2006年10月22日、沖縄コンベンションセンター展示棟
「第1回沖縄県トータルリビングショウ」は1987年11月6~8日、沖縄コンベンションセンターで開催。同事業は、広告局の営業担当者が東京での「グッドリビングショー」を紹介され、「沖縄でも本格的な住宅見本市を開催してはどうか」と持ち掛けられたことをきっかけに計画が進んだ。